彼らは「社会的難民」である

彼らは「社会的難民」である

「ひきこもり」という言葉から感じる違和感

私は今までひきこもりやニートの問題に携わってきましたが、深くこの問題に関わっていけばいくほど、この「ひきこもり」という言葉に違和感を感じるようになってきました。いくら「ひきこもり」自体についての誤解や偏見を訴えても、「ひきこもり」という言葉自体にそれを感じるのです。
「ひきこもり」という言葉自体は、90年代頃から使われはじめ、その存在の増加とともに問題として取り上げられ始めた言葉であり、もともとはアメリカでの「社会的撤退」を意味する言葉の訳語らしいです。
しかし「ひきこもり」からそのまま意味をとると、ひきこもる(同じ場所にずっといて出てこない)人となり、「ひきこもる」という言葉自体に主体的な意味合いがあるため、自分の意思でそのような状態でいると「ひきこもり」の言葉自体からも感じてしまうのです。

「ひきこもり」ではない、彼らは社会的「難民」である

「ひきこもり」に違和感を感じ、それに代わる言葉を考えた時、一番近くに感じたのは、「難民」という言葉でした。「難民」とは、国内の戦争・紛争や飢餓など、情勢が不安定なため自分の住む場所や国を追われた人々のことを指します。
なぜ「ひきこもり」と「難民」の状態が近いのか、一つは本人の意思でその状態を選択しているのではない、というところが一致している点です。
誰もかねてからの希望で社会との繋がりを絶ったという人はほとんどいないと思います。おそらくほとんどの方は、子どもの時には社会の中にいる自分を思い描いていたはずです。
しかし様々な要因により学校や職場等の社会に留まることが出来なくなり、またいったん離れると戻ることも困難になるために、社会と離れてしまった状態が続いてしまいます。
その理由については、「ひきこもりの問題と向き合う前に」で述べられていますが、身体的なものや社会的なもの、環境による要因や運に至るまで複雑に絡み合ったものが働いており、それは多くの方にとって、本人の意思とはかけ離れたところにあります。
このように、社会の中に居場所がなくなり、やむをえず自分の部屋に「避難」している状況は、自分たちの居場所から他の場所へ避難せざる負えない「難民」の状況に近いと感じるのです。

「ひきこもり」は政治的な失敗、そして課題である

 
「ひきこもり」と「難民」の共通する部分はもう一つあります。それは、本人やその周りの人の責任ではないということです。海外のニュースで国を離れる「難民」を見て、彼らを非難はしないでしょう。なぜなら、それは政治的な問題だからです。
ひきこもりやニートなどの問題にもそれが当てはまります。「ひきこもり」問題の大きな原因の一つを簡潔に言うと、「国内の不景気による就職難や労働環境の悪化等により社会から離されてしまった、主に成人以降の若者達をフォローする政策を国が打ち立ててこなかったこと」にあります。
実際に、「ひきこもり」問題はバブル崩壊以降から深刻化しています。現在の統計でも30代後半が多いのは、ちょうど超就職氷河期といわれた時期を新卒生として経験し、まだブラック企業という言葉もなくインターネットもそこまで普及していなかったため、「隠れブラック企業」が多く存在しており、新卒性としてのスタートを失敗した方、また入社できたとしてもそれらのようなブラック企業に酷使され、使い捨てされた方が多く、そのような方々を国がファローせず、黙殺してきた結果です。
そしてこの問題を「個人の問題」とし、本人や家族に押し付けたことにより、より問題が長期化、深刻化して今に至るのです。
今までこの問題が、国内の問題として大きく表立ってこなかったのには理由があります。
それは家族が彼らを養うことが出来ていたからです。しかし、家族、特に親の世代の高齢化が進み、彼らを養うことが出来なくなったとき、誰が面倒をみるのでしょう。
この問題は国が中心となって取り上げ、解決すべき問題であります。
しかし、この問題は今この瞬間においても起き続けている問題であり、私は支援者として、出来る限りの支援に尽力したいと思っております。